ソロ・ピアノ

 1929年12月12日旧満州、遼陽に生まれる。
 小学校の時に家族で大連に移り、大連音楽学校を卒業する。この間36年〜45年はクラシック・ピアノを学ぷ。終戦後、46年家族と共に引き揚げて、翌47年から九州の駐留軍クラブでジャズの演奏を始める。
 49年上京して、ブルー・コーツ、シックス・レモンズ、ゲイスターズ等を経て、51年8月渡辺貞夫を加えたコージー・カルテットを結成。バド・パウエルの影響を強く受けたダイナミックなプレイで注目を集める。当時駐留していたハンプトン・ホーズからも啓蒙を受ける。
 53年11月JATPが来日した際、オスカー・ピーターソンに認められて、ノーマン・グランツのプロデュースで初レコーディングし、米ジャズ界に紹介される。これは彼自身のレーベル<ノーグラン>(後のVerve)から「アメイジング・トシコ・アキヨシ」として、25センチLPで発売され、日本人でアメリカのレーベルに吹き込んだ最初のミュージシャンとなった。
 56年1月バークリー音楽院に日本人初の奨学生として留学し、59年まで同校でピアノ、作編曲を学ぶ。この間56年、57年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演して絶賛を博す。
 59年11月チャーリー・マリアーノと活婚、双頭カルテットを結成、60年12月には同カルテットでキャンディッドに録音、61年2月に里帰りツアーをする。62年にはチャールス・ミンガスと共演、63年2月に再度チャーリー・マリアーノと組んで帰国公演をする。これを機に日本永住を決意したが受け入れられず65年に再び米ジャズ界に戻る。
 その後60年代はニューヨークを中心にクラブ出演、クリニックでの指導といった仕事を経て、68年現実ルー・タバキンと双頭カルテットを結成、70年8月には大阪万国博ジャズ祭の出演、71年2月にはカーネギー・ホールに出演、同年3月再度帰国公演を開くなど積極的な活動をみせる。72年7月タバキンと共にLAに移住、73年にトシコ〜タパキン・ビッグ・バンドを発足させ、74年5月LAでデビュー・コンサートを開く。また同年同楽団で「孤軍」(BMGビクター)発表、これによりスイング・ジャーナル誌第8回ジャズ・ディスク大正<銀賞>を受賞。75年にはモンタレー・ジャズ祭に出演し絶賛を博し、世界有数のビッグ・バンドに数えられるに至る。
 75年スイング・ジャーナル誌主催第1回南里文夫賞受賞。オーケストラでの第5作「インサイツ」で76年ジャズ・ディスク大賞<金賞>を受賞。78年度米ダウンビート誌人気投票<ビッグ・バンド部門>で遂に1位を獲得し、79年には同部門と<編部門>、80年にはそれらに加えて<作曲部門>もという3部門制覇の快挙を成し遂げる。また80年ニューポート・ジャズ・フェスティバルでは「秋吉敏子の夕べ」というプログラムも組まれ、名実共にジャズ界の第一人者としての地位を確立する。
 82年10月、10年間にわたって世界的評価を得てきた同楽団を解散、再びNYに居を多し、新たにNYのメンバーからなる秋吉敏子ジャズ・オーケストラを結成、クール・ジャズ祭など世界各国で公演し名声を博す。84年同楽団で「テンガロン・シャッフル」(BMGビクター)を発表。
 86年の自由の女神100年祭では日本人ではただ1人リバディ賞を受賞する。これを記念して15作目の「ピース」を発表する。さらに同年グラミー賞に10年連続ノミネートされたのを記念して、プレゼンターとしてステージに登場する。
 91年には力ーネギー・ホールで音楽生活45周年を記念したコンサートを開き、そのライブ盤「秋吉敏子オーケストラ・力ーネギ一・ホール・コンサート」<ソニー>も発売される。96年には音楽生活50周年記念として富士通コンコード・ジャズ・フェスティバルで公演。97年紫綬褒章を受賞。98年エイボン女性賞を受賞、バークリー音楽院より音楽名誉博士号を授与される.99年にはアメリカの名声の殿堂入りを果たし、横浜文化賞、2000年東京文化賞も受賞する。「秋吉敏子ソロ・ライブ・アット・ザ・ケネディ・センター」(日本クラウン)でのソロ・ピアノは自作のオリジナルとスタンダード曲を織り交ぜ、オーケストラとは違った、ビ・バツプと日本の伝統芸能に造詣の深い彼女ならでほの圧倒的な音楽世界を展開している。
 昨年、30年も続けたジャズ・オーケストラを解散。原点であるジャズ・ピアニストに専念。これからも世界の敏子から目が離せない。

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