1961年3月25日神戸市に生まれる。関西有数のジャズ・ピアニスト、小曽根実を父に持ち、12歳でオスカー・ピーターソンのコンサートに接し、ジャズ・ピアノに興味を抱く。1年間はピアノ教師につくが、あとは独学でジャズ・ピアノをマスターする。15歳で北野タダオとアロー・ジャズ・オーケストラのピアニストに抜擢される。

80年、高校卒業後、ボストンのバークリー音楽院に留学、講師のフィル・ウイルソンに認められ「ライブ・アツト・バークリー」を録音。以後ボビー・シュー、ビル・ベイリー等と共演する。83年5月ジャズ作曲科コースを首席で卒業。同年クール・ジャズ祭でカーネギーホールに出演、ドキュメンタリーとしてTV放映されるなど日本でも話題をまく。

84年6月には、バークリー時代からの恩師でもあるゲイリー・バートンのプロデュースで初リーダー作「OZONE」(CBS)を発表。日本人として初めて米CBSと専属契約を交わしたアーティストである。以後「アフター」「スプリング・イズ・ヒア」「ナウ・ユー・ノウ」(CBS)をリリースする。90年に帰国し、ビクターエンターテイメントに移籍し、シンセサイザー等の電子楽器を使った音楽に積極的に取り組み、「スター・ライト」「パラダイス・ウィングス」「ウォーク・アローン」をリリースする。

94年、ポリドール・ヴァーヴに移籍、初のピアノ・ソロ・アルバム「ブレイクアウト」を軽音、95年には、ピーター・アースキン(ドラムス)、ジョン・パティテュッチ(ベース)とのトリオ作「ネイチャー・ボーイズ」(verve)、ゲイリー・パートンとの完全デュオ・アルバム「フェイス・トウ・フェイス」(GRP)をリリースする。

96年、カリブ海のジャズ・クルーズで北川潔(ベース)、クラレンス・ペン(ドラムス)と劇的な出会いをし、即このトリオ結成を決断、「ザ・トリオ」(verve)を録音、スイング・ジャーナル・ゴールド・ディスクを受賞、さらに同誌98年度の日本ジャズ・ディスク大賞も受賞する。

98年3月、"THE TRIO"の2作目となる「スリー・ウィッシズ」(verve)を発売、再度スイング・ジャーナル・ゴールド・ディスクを受賞、6月には日本のトップ・ギタリスト渡辺香津美との完全デュオ作「ダンディズム」(domo)にゲスト参加、10月には"THE TRIO"の3作目「ディア・オスカー」(verve)を発売、99年度のスイング・ジャーナル・日本ジャズ・ディスク大賞を2年連続で受賞、名実共に日本ジャズ界No.1アーティストとしての地位を獲得した。

99年3月更なる飛躍の為に、トリオのメンバーの住むニューヨークヘ再び移住。6月にはトリオの新作「ノー・ストリングス・アタッチト」をリリース。4月に発表されたスイングジャーナル誌の読者人気投票では、3冠("ALBUM OF THE YEAR"、COMBO部門、PIANO部門)を制覇するという快挙を成し遂げる。7月にはトリオで"ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン斑尾"に出演、マイケル・ブレッカーやメシオ・パーカーとも共演し話題を集めた。同年12月にはサントリーホールにてトリオによるクリスマス・コンサートを開催。この公演を含むツアーを最後にトリオから北川潔が脱退。

2000年に入り、新ベーシストにジェームス・ジナスを迎えて新たにトリオの活動を再開。ニュー"ザ・トリオ"での新作「パンドラ」も絶賛を浴びた。同時に他のアーティストのプロデュースにも本格的に取り組み、2000年11月には日本を代表するジャズ・シンガー伊藤君子をプロデュース。2001年にはN.Y.で活躍する日本人ベーシスト中村健吾を手がける。また舞台音楽も手がけ、第35回紀伊国屋演劇賞(2000年)個人賞を受賞。現在人気FM番組「OZ MEETS JAZZ」(J-WAVE、萩でもFM77.5で放送)、アサヒの黒生ビールのCM、「情熱大陸」、「ようこそ先輩 課外授業」、「芸術劇場」に出演し好評を博す。

2002年7月には、ゲストにチック・コリア、ゲイリー・バートン、マイケル・ブレッカー、ジョン・ヘンドリツクスを迎えたデビュー20周年アルバム「トレジャー」を発売する。そして遂に昨年2月グラミー賞にノミネートされる。7月には初のスタンダード集「リボーン」を発売。現代世界最高レベルのトリオといわれる"ザ・トリオ"での活躍はもとより、コンポーザー、プロデューサーとしても世界レベルでの活躍を続けている。

6/14mon./'04
19:00&21:00

8,000円(ea.)

1946年7月11日、香川県小豆島に生まれる。4歳の時、ラジオから流れる美空ひばりの歌声に魅せられ、歌手を目指すようになる.武蔑野美術大学油絵科卒後、70年沢田靖司に師事。74年後藤芳子の推薦でジャズろう会で歌いデビュー。

以後、世良譲3、北村英治G、ジョージ・大塚3などと共演を重ね、実力をつける。81年初リサイタル、82年にはファースト・アルバム「バードランド」を発表する。83年セカンド・アルバム、同年6月NYでサード・アルバムと着実にキャリアを重ね、84年4月より半年間渡米、NYのクラブ「サットンズ」に1ヶ月間出演、帰国後85年5月4枚目のアルバム「ア・タッチ・オブ・ラブ」を発表。同年5月NYで5枚目のアルバム「フォー・ラバーズ・オンリー」を発表、日本人のジャズ・ボーカルとしては初めてアメリカ発売される。

88年、東西の音楽交流をはかったイベント"EAST MEETS WEST"(BOTTOM LINE/NY,IPT INN/TOKYO)に出演。89年、日米同時発売されたアルバム「フォロー・ミー」では、米ラジオ&レコード誌のコンテンポラリー・ジャズ部門の16位にチャート・インするという日本人女性ヴォーカリストとして初の快挙を成し遂げた。

ジャズ・ヴォーカリストとして確固たる存在となった伊藤君子は、以後アルバム、コンサート、海外のジャズ・フェスティバル、テレビ、ラジオ番組、ライブ八ウスと幅広い音楽活動を続けている。

97年、小曽根真とモントルー・ジャズ・フェスティバルにデュオで出演。その模様を収録したライブ・アルバム「アット・ザ・モントルー・ジャズ・フェスティバル」をリリースする。

2000年に発表されたNYでのスタジオ・レコーディング・アルバム「KIMIKO」は、プロデューサーに小曽根真を迎え、ヴォーカリストとしての伊藤君子の魅力を存分に引き出したものとなった。このアルバムは2000年度スイングジャーナル誌ジャズディスク大賞日本ヴォーカル賞を受賞する。2004年、「フォロー・ミー」が押井守監督作品「イノセンス」の主題歌に選ばれ、幅広い層のファンを獲得する。

日本ジャズ・ヴォーカリストの第一人者となった今でも、彼女の歌に向かう真摯な姿勢はいつも変わらない。彼女は、その肉体と精神のすペてを捧げて歌っている。