約11mの高石垣の天守台上に、五重五階の大型望楼型天守が威容を誇った。萩城天守閣は築城技術の大転換期の真っ只中に建造されたこともあり、旧式技術の最後の例でありながら、同時に最新技術の先駆例でもあったようである。
天守台石垣は打込接(石材の接合面を少し加工した石垣工法)によって積み上げられ、裾が大きく広がり、下部では勾配が相当に緩いが、上部では急に反り上がってほぼ垂直となる規合(のりあい)という新技術が導入され、いわゆる扇の勾配と呼ばれる美しい弧を描いている。
東西約22m、南北約18mの初層は、天守台よりも張り出し、石落しを備えていた。二重二階の入母屋造の基部をもち、その上に三重三階の望楼を載せている。三階の平側中央には大型の入母屋造の出窓が突き出し、天守の中央を飾っていた。最上階の五階には社寺建築に用いるような高欄を廻らした優雅な姿であった。
外壁は白漆喰の総塗籠の美しい姿だったと考えられ、総塗籠が城外壁に用いられる初例であるともいわれる。また、突上戸は表面を総銅張板とする最新の技法も試みられている。
毛利輝元の命により1608年(慶長十三年)に完成、以後266年間存続したが、1874年(明治七年)に解体された。