(1)関ケ原の戦
萩城がつくられる四年前の1600年(慶長五年)は、日本の歴史のうえで、たいへん重要な事件が起きた年です。日本中の武士たちが東と西にわかれて、天下を争ったのです。その東軍の総大将が徳川家康で、西軍の総大将が毛利輝元でした。
朝から始まったはげしい戦いは、初めはむしろ西軍の方が有利でした。しかし、すでに徳川方との約束をとりつけていた毛利の吉川広家は、戦いが始まっても、陣地から動こうとしません。これではその後ろに陣をはっていた毛利秀元もどうしようもありません。そのうちに、西軍側の毛利の小早川秀秋が、家康の催促をうけて、東軍へねがえりをうって、西軍に攻撃をしかけました。これをきっかけに、西軍は総くずれとなり、とうとう毛利軍は戦いに参加することなく、東軍の勝利となりました。
(2)防長への国がえ
関ケ原の戦いが終わったのちも、西軍の総大将の毛利輝元は、大阪城にいました。徳川家康は、輝元に城を出るように要求しました。毛利秀元は、まだ家康方との戦いをあきらめていたわけではなく、ほかの家臣のなかにも城にたてこもって戦おうというものが少なくありませんでした。しかし、輝元は、家康方との戦いをあやぶみ、領地をそのまま認めるという家康方の約束を信じて、吉川広家の意見にしたがい城を出ました。
ところが、そのすぐ後に、大阪城に入った家康から使者がきて、毛利氏の処分を伝えました。輝元は、西軍の総大将としての責任をとって隠居すること、これまでの領地八か国120万石は、家康がとりあげ、そのかわりに輝元の子の秀就に周防・長門の二か国をあたえるというきびしい内容のものでした。秀元は、家康が輝元との約束をやぶったことをいかり、吉川広家も、ことの意外ななりゆきにおどろきましたが、すでに天下の大勢は徳川氏へと移っており、どうすることもできませんでした。
(3)城地の決定
関ケ原の戦いに敗れ、防長両国(長州藩)に移ってきた毛利輝元と家臣たちは、領地の中心となる城と城下町をつくる必要がありました。輝元は、徳川家康から城をつくる許可をもらい、いろいろ考えたうえ、山口の鴻峯・防府の桑山・萩の指月山の三つを候補地に選びました。
萩は、領地の中心からひっこんでいましたが、関ケ原の戦いの前に輝元がいた広島城と同じように三角州が発達し、しかも海に面しており、海や川の交通に便利でした。
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三箇所の築城候補地 |
輝元は、家老の福原広俊を江戸につかわし、国司元蔵とともに、家康の家臣の本多正信・正純親子の意見を求めさせました。本多親子は、三つの候補地の絵図を詳しく見ながら、それぞれの土地の様子について、念をいれて質問をしました。その結果、本多氏の意見は、萩の指月山が城をつくり、敵を迎えうつには、ちょうどよい所だということでした。そして正信は、「防長の東と西の境目には、だれを置いたか。」と、尋ねました。広俊と元蔵は、「東の岩国には吉川広家、西の長府には毛利秀元を置きました。」と、答えました。すると、正信は、「岩国と長府と萩とでちょうど鼎(三本足の金属器)のようになって、萩の指月山に城を築けば、それはますます位置がよい。」ということになりました。こうして、萩の地に城と城下町をつくることが決定しました。