明治維新の胎動は、萩城天守閣をシンボルとした長州にその奮発震動の象(しるし)があり、その源流は松下村塾にあります。幕末に多くの志士を輩出したことは、1719年(享保4年)に藩校明倫館を開設し、総合的な人材の育成に力を注ぐなか、有能な人材を留学させて果断な人材起用を尊ぶ気風が底流にあることがわかります。
「藩士でなくとも志あるものは勝手次第、袴着用のうえ、まかり出べき候。」と、開かれた門戸に高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允など多くの志士が集い、吉田松陰の実学の教えのもと、維新への情熱を燃やしました。
18644年(元治元年)の禁門の変で敗退したのち、第1次幕長戦争で幕府への恭順が決定したが、奇兵隊を組織した高杉晋作らが長州藩の実権を奪い、長州藩は討幕へと固まりました。1866年(慶応2年)第2次幕長戦争(四境戦争)で幕府を破り、討幕の密勅が長州藩に下るに至って、萩城を拠点とした長州藩を歴史の舞台へと導いたのでした。
幕末の長州藩主毛利敬親は、萩城を舞台に毛利支藩の藩主や家臣と激動の時勢を語り、志士は萩城天守閣を討幕の精神的シンボルとしました。長州藩の武士と民衆が格式を捨て、毛利元就の遺訓「百万一心」の文字通り、一丸となって事に当たる有能の士の結集力が明治維新を築いたと思われます。