萩城の歴史 > 2. 萩城の建設

(1)萩城の建設
 そのころ、指月山はまだ現在のように完全な陸つづきではなく、海水が満ちると、歩いては渡ることができませんでした。そのため、城をつくるにはまず埋めたてをすることから始められ、1604年(慶長九年)6月1日に、工事開始の式がおこなわれました。
 石材は、指月山のふもとの岩石でほとんど間に合いましたが、不足の分は、隣村の大井・奈古(阿武町)や青海島(長門市)から運び出しました。
 木材は、阿武・大津・豊田(豊浦郡の東半分)の三つの郡に割りあてましたが、大部分はやはり萩のまわりの霧口・川上・佐々並の村々から阿武川を利用して運びました。
 瓦は、和泉国 (大阪府)の堺のものを多く用いましたが、地元で焼いた瓦も使いました。
 毛利輝元は、萩城の工事が始まった年の11月11日に萩へ移り、翌年には、家臣たちに屋敷を割りあて、商人や職人をよんで、町づくりにとりかかりました。現在では、萩の町は松本川と橋本川にかこまれた三角州のうえに発達していますが、当時このあたりは、大部分が沼で、アシのはえた水たまりでした。

(2)苦しい藩の財政
 城づくりと町づくりは、ちゃくちゃくと進められていきましたが、これらの工事には、たいへんな費用がかかりました。それに、毛利氏は関ケ原の戦いによる処分で、領地が中国地方八か国112万石から周防・長門の二か国三十六万九千石に減らされました。
 萩藩の財政は、最初から苦しい状態にあったのです。
 こうして、1607年(慶長十二年)から始まりました検地は3年後の1610年(慶長十五年)に終わり、防長両国からは米にして53万9286石あまりとれることがわかりました。

(3)萩城の完成
 萩城は、工事を始めてから4年後の1608年(慶長十三年)に完成します。五層の立派な天守閣のそびえる城を中心に、武家屋敷や寺院、それに商人や職人たちの町が出来上がり、萩は防長両国の中心地として栄えて行きました。

1. 毛利氏城地の決定
3. 明治維新と萩城
4. 萩城下町
5. 国指定史跡「萩城跡“指月公園”」